郡上八幡城探訪
郡上八幡は徳川親藩郡上藩四万八千石の城下町。
町を見下ろす山の頂きには白亜の天守閣。
歴女なんていう呼ばれ方も、この歴史ブームも大して意に介さないで、
静けさの中で戦国武将に思いをはせ、
歴史をひもとく楽しさをマイペースで満喫する...
城が語りかけてくれるもの。
それはきっと歴史だけでありません。
= お城
=山内一豊と千代の像
= インフォーメーション
郡上八幡観光協会制作の「城下町みどころマップ」はこちらからプリントできます。
郡上八幡城
(古名) 積翠城、郡城、虞城
戦国時代末期の永禄2年(1559)、遠藤盛数によって砦が築かれたのが郡上八幡城のはじまりです。
その後稲葉貞通、遠藤慶隆の興亡を経て大普請され、寛文7年(1667)6代城主遠藤常友の修復によって、幕府から城郭として格上げされました。
のちに井上氏、金森氏と相次いで入部。宝暦5年(1755)大規模な農民一揆がおこり、12代城主金森頼錦は、お家断絶に追い込まれるというわが国の歴史上、最も壮絶な一揆が展開されました。
金森氏に代わって、宝暦9年(1759)に丹後の宮津から転封した青山幸道は城下の殿町に居館を築き、旧二の丸は本丸、旧本丸は桜の丸、松の丸に改められました。
そして明治4年(1871)廃藩置県とともに廃城となった城は翌年から石垣を残してすべて取り壊されることになります。
現在、城郭一帯の石垣すべてが県の史跡に指定され、昭和8年(1933)に再建された天守閣は市の有形文化財に指定されています。
入場料金:大人300円 子供150円(20名以上の団体は割引あり)
開場時間:9時から4時30分(夏季は6時まで)
12月20日から1月10日まで冬季休館いたします。
山頂駐車場は無料ですが駐車台数がかぎられています。また乗車定員が6人以上の車輌は通行できません。山内一豊と千代の像の近くの駐車場をご利用いただき、木々の緑、鳥のさえずりを楽しみながらの15分から20分ほどの散策での登城をお奨めいたします。
郡上八幡城360°バーチャルツアー
城郭は防禦をその目的に築かれたものですからこの桜の丸へ通じる虎の口(入り口)の石段もその目的をもって急で不規則に築かれています。
その石段を登りつめたところで広がるのがこの風景。郡上八幡城一番のシャッターポイントです。
天守閣と櫓門。ここからは郡上八幡の城下町の家並みが一望できます。
紅葉に染まる天守閣を松の丸の方向から見上げました。
天守閣の真下の3段の石垣は帯曲輪(おびくるわ)と呼ばれる最大規模のものです。
郡上八幡城天守閣の最上階からは郡上街道、飛騨街道、越前街道を見渡せ、城下の動きも手に取るようにつかめます。
ここに天守台を構えた理由がよくわかります。
天守閣1階は豪快な吹き抜け構造であり、歴代城主の武具、甲冑、墨跡などが展示されています。
ここがみどころ郡上八幡城
戦国時代の荒々しさを偲ばせる石垣
天守台の石垣のほとんどの部分は、天正16年(1588)ごろに稲葉貞通の大改修の際に築かれたもので、戦国時代の荒々しさを偲ばせる野面積(のづらづみ)と呼ばれる工法によるものです。
一部に打ち込みハギの手法も見られますが、碁盤の目のように並べられた切石積とは対照的な石垣となっています。
昭和30年(1955)に天守台すべての石垣が岐阜県の史跡文化財の指定をうけました。
天守台真下の三段の帯曲輪はその規模の最も大きな部分であり、また城郭は防禦をその目的に築かれたものですから松の丸、桜の丸へのいずれの虎の口(入り口)からの石段もその目的をもって急で不規則に築かれています。
「登りづらい石段…」とお感じになったらそれは城郭構造の体験のひとつとお考えになってください。
日本で最も美しい山城
優雅な破風をもつ現在の4層5階の天守閣は昭和8年(1933)に大垣城を参考に模擬天守閣として2つの隅櫓と高塀とともに全国にさきがけて再建されました。
一部の古図に描かれているようなかつての3層の天守閣とは異にしています。
しかし日本最古の再建城として年月を経た木造の城内は大胆な吹き抜けの構造や急な階段にその趣きを感じさせ、白亜の外観は、城下のどこから眺めても見事にその構図の中心におさまります。
再建された城でありながら、司馬遼太郎氏はその著である「街道をゆく」の中で「日本で最も美しい山城であり、隠国(こもりく)の城。」と評されるに至っています。
町全体が鮎の形に見える天守閣からの眺望
天守閣に上れば重なり合うような奥美濃の山々のうねりと狭い盆地にびっしりと軒を連ねる城下の家並みが見事な眺めを見せ、町の中央を洗う吉田川の瀬音が山頂までとどいてきます。
そしてその流れをたどれば長良川の波光が城下町の向うにきらめいて見えます。
郡上鮎の本場として知られるこの町が天守閣から眺めると町全体が鮎のかたちに見えるというのも偶然が生んだ巨大ないたずらです。
郡上八幡城の秘話伝説
力石のいわれ
遠藤慶隆が八幡城復帰した寛文年間(1660年ごろ)郡上八幡城の大改修が行われました。
その時通称赤髭作兵衛と呼ばれた力自慢の人夫
が城下吉田川からひとりで背負い上げたというふたつの石。(1m×75cm、推定約350kg)
普請奉行がその力量を深くほめたたえたとたんに彼はその場で倒れて息絶えたと伝えられています。 普請奉行はこれを哀れんでこの石の使用を禁じたため、以降天守台の一郭に放置されていましたが、昭和8年に模擬城の建設にあたり、この石を現在地(八幡城内門前下)に安置し顕彰したものです。
人柱およし伝説
天守閣建造は険しい山頂の地形から当時の土木技術ではたいへん困難な工事でした。特に土台となる石垣の構築はたび重なる崩壊があった、と伝えられます。
そんな折、 栗巣村(現在の大和町)から切り出して運んだ天守閣の主柱となる檜の巨材が神路村(現在の大和町)までさしかかると急に動かなくなりました。村人総出で木を曳く作業にあたりましたが、その中にいたおよしという娘が手を添えると不思議と木は動き、とうとうおよしは木を曳く人夫や村人たちといっしょに城の築造現場まで来てしまいました。
その頃、石垣の崩壊に頭を悩ませた普請奉行は当時の慣習であった人柱を決め、そのおよしに白羽の矢が立ちました。 里の小町といわれた当時19才のおよしは白のりんずの振袖に白の献上の帯をしめ、城山の露と消えたと伝えられます。
現在、天守閣前にはおよしの霊を祀る観音堂があり、また麓の善光寺にはおよし稲荷があって、8月3日には慰霊祭が欠かさず行われています。そして町の子供たちは城の石垣に向かって「およし、およし」と声をかけながら手をたたくと、そのこだまがおよしの泣き声に聞こえる場所がある、といったようなちょっとおそがい(郡上弁で怖いの意味)伝説を夏の夜に両親や祖父母から伝え聞かされるのです。
首洗いの井戸
山頂の松の丸北側は現在の駐車場として整地されるまで、杉や雑木の生い茂った湿地帯で、北方尾根を切断する巨大な掘り切りの跡でした。ここには一基の浅井戸があり、「首洗いの井戸」または「血の井戸」と言い継がれています。
慶長の合戦に際して討ち取られた寄せ手の名のある武士の首が洗い清められ、首実検に供されたといわれるものです。その真偽のほどは確かではありませんが、慶長の合戦のその凄まじさと、この掘り切りと北の曲輪の険しい地形に守られた城の難攻さを物語るものとして生まれた伝説とも考えられています。
郡上八幡は「巧名が辻」千代のふるさと
山内一豊の妻千代は1556年(弘治2年)初代郡上八幡城主遠藤盛数の長女として生まれました。千代が6歳の時に父盛数は病死、その後母の再婚、義父の敗北そして流浪、波乱の人生がはじまります。やがて千代は尾張の山内一豊の許へ嫁ぎます。
一豊は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と時の覇者たちに仕え、最後には土佐藩24万石の大名にまでのぼりつめた武将。その影には妻である千代の内助の功があったといわれています。
有名なエピソードに一豊が「馬揃え」を目前にひかえて困っていたとき、千代は鏡台から10両をさし出して駿馬を買わせ、それが信長の目にとまって一豊の出世の糸口となった逸話があります。
この千代が諸説ある中で初代郡上八幡城の城主遠藤盛数の娘であったという説が有力であり、現存する遠藤家の系図には「盛数の娘山内対馬守室」(妻の意味)と記されています。
「功名が辻」原作者司馬遼太郎氏が日本で一番美しい山城と評した郡上八幡城や旧本丸屋敷跡に、城下町を見守るように立つ一豊と千代の銅像。郡上八幡城天守閣や郡上八幡博覧館では期間中「一豊の妻千代特別企画展」を開催中です。また千代のゆかりの場所である慈恩禅寺や宗祇水をめぐり歩く「千代めぐりモデルコース」(徒歩3時間)が設定されています。
城山古道
城山頂上の郡上八幡城の天守閣へ登る江戸時代の4本の古道でそれぞれ山の東西南北に1本ずつ位置しています。
東からの登り道は小野坂。郡上高校グランドの端からなだらかな上りがつづき、北からの登り道である車坂とは山の尾根で合流します。北から登る車坂の名は築城の際に石垣の石や資材を車で運びあげたことに由来し城山トンネル脇の上ヶ洞八坂神社がその登り口です。
南からの道は城山の崖が吉田川に迫り出した小坂歩危と呼ばれる新橋のたもとからはじまります。悟竹院の境内をぬけ鐘楼の横をすぎると道は鬱蒼と繁る照葉樹林の中に入り、絡まった木の根を踏みながらの登りがつづきます。城山の山容を町から見上げると分かりますが山の南側が最も険しい切り立った崖になっているためです。
西からの古道は現在の自動車用の道路が建設された際ほとんどの部分が寸断されその下に埋められてしまいました。車で登頂すると途中で数ヵ所に自動車用の道路と垂直に交わる崩れかけた石段を見ることができます。それがそのなごりです。
いずれの道も上り口から天守閣まで20分ほど。野武士が途中で潜んでいるような雰囲気のある山道を歩いてみるのも旅の一興かと思いますが足もとには十分な注意が必要です。公園内とはいえハイヒールやサンダルでの古道の登頂はお奨めいたしません。
郡上八幡の歴史を紐とけば...。
郡上八幡の城下町としての歴史は永禄2年(1559)に遠藤盛数によって八幡山に城が築かれたことにはじまります。時は室町時代の後期、戦火のくすぶる時代でした。

郡上八幡の町景観の特徴である寺と水路と袖壁の家々
写真はクリックすると拡大します。
4代城主遠藤慶隆は城下町の整備に力をいれ、神社の建立や寺院の開基につとめました。またそれまであちこちで踊られていた盆おどりをひとつにして城下で踊ることを奨励し、人心の懐柔をはかりました。これが現在の郡上八幡の観光の基礎となっています。
その50年後の承応1年(1652)城下の片すみで起きた火事は、折からの風にあおられてまたたく間に燃え広がり、町全体を焼きつくしてしまいました。
6代城主の遠藤常友は寛文7年(1667)、焦土と化した町を綿密な計画のもとにその復興を手がけます。まず4年がかりで小駄良川の上流3キロから水を引き入れ、城下の町並みにそって縦横にはしる水路を建設しました。
これは生活用水であ ると同時に大火を繰り返さないための防火の目的でもありました。また近在の寺院を城下に集めて「八家九宗」を形づくり、辻のつきあ たりに配置して戦時のための防禦にあてました。通りのつき当たりに寺があり、道の両側を水路が走るという現在の町の景観の特徴はこの頃の名残りを伝えるものです。
城を正面に見据えた城下の家並
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宝暦5年(1755)郡上藩で大規模な農民一揆が蜂起します。過酷な重税にたまりかねた農民たちが決死の覚悟で幕府へに直訴、駕篭訴をくりかえし12代城主金森頼錦をお家断絶へと追い込みました。これが有名な宝暦騒動で、わが国で最も壮絶な一揆といわれています。
宝暦9年(1759)青山幸道が13代城主として入城し青山家が7代にわたって、明治維新まで続きます。東京 港区の青山の地名は江戸時代に郡上藩の江戸屋敷があ ったそのなごりです。
上柳町にあるかつての足軽長屋
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幕末から明治維新(1868)へたどる激動の時代、官軍側につくか徳川方につくかで選択をせまられた郡上藩は二分極の政策を同時進行させました。つまり藩は官軍に付く姿勢を表面に出しながら、脱藩者の名目で43人の若者たちを白虎隊の援軍として会津に送りこんだのです。これが郡上凌霜隊でした。
徳川の親藩でありながら、時代のうねりには逆らえないことを悟った山国の小藩の苦渋の決断でした。歴史の流れのはざまに翻弄された若者たちの純粋さと悲劇は歌やドラマになって今に伝えられています。
©2009 郡上八幡環境会
















